フェンス


「うわっ、やっぱりここにいた」

背後から聞こえたのは、松井の声だった。
俺はゆっくりと振り返り、彼女を一瞥する。
頭に野球帽を被っているので、表情まではわからなかった。

「そんなとこにいたら、日射病になっちゃうよ」
彼女はグラウンドに入り、俺が立っているホームベースへ近づいてきた。

「今日は暑いから」

俺は何も言わず、どこまでも続く空を見上げた。
眩暈がするほどの陽射しが、夏であることを告げている。

「高い空だねぇ」
気がつくと、彼女も隣で空を見ていた。
「フェンスまで高く見えるよねぇ」

青い空に、緑色のフェンス。
彼女の言う通り、それはとても高く思えた。



「キャッチボール、しない?」
彼女が握っていた白球を見せた。
それは昨日、俺達三年の野球部員が全員で寄せ書きしたボールだった。

「松井がピッチャーな」
俺はそう言って、左手に持っていたグローブを構えた。
彼女は嬉しそうに、ピッチャーマウンドへ走る。

「そこから届くのか?」
野球経験のない彼女には、少し長すぎる距離だろう。
「一回、投げてみたかったの!」
彼女はそう言ってから、投球体制に入る。
ひらひらしたスカートが邪魔そうだった。

「そっか。今日私服なんだっけ」
「……もう少し近づけば?」
俺が気をきかせて言うと、彼女は少し前へ歩み寄った。

「よし、行くよ」

投球フォームは、けっこう様になっている。
俺は期待を込めて、ど真ん中にグローブを構え直した。



白球は大きなカーブを描いて、少し右にずれた。



「ボール」
「え〜! わっかんないよ、バッターいないもん。振ってたかもしんないじゃん」
「いや、今のはボール」

彼女は、こちらへ近づいてきて、もう一度フェンスを見上げた。
俺も立ち上がり、横に並ぶ。

「似合わないっしょ、スカート」
「……」
「うわっ、黙ってるのって、肯定ってことだよね。ひどい」
彼女が右眉を上げながら、俺の顔を覗き込む。
俺は、暑さでほてった顔を右に向けた。

「まーいーけどさ。ジャージはもう、卒業だもん」

セミの声が大きくなってきた。
一週間しか生きられないセミにとっては、
今日のような日は願ってもないチャンスなのかもしれない。



「……さー、帰ろーかな」
彼女が俯いて言った。

「じゃあ、また明日ね」
左手を上げて、くるりと背を向ける彼女。

俺はその背中を見た。
小柄な彼女は、太陽の光で消えてしまいそうだった。



「マネージャー!」
俺の声に、彼女が振り返る。

「なんすか、キャプテン」
「もう、キャプテンじゃない」
「私ももう、マネージャーじゃないんだけど」



「甲子園連れて行けなくて、ごめんな」



込み上げてくるものが、その後の台詞を遠ざける。
俺はグラウンドの土を見つめた。

「約束、したのに」



セミの声が、一際大きくなる。

今日は、暑い。

汗がしたたり落ちた。

左手にしているグローブが、重い。

唇を噛み締める。

今日が日曜日で良かった、とぼんやりと思った。





「鈴木のアホー!!」



と、突然彼女の声がグラウンド中に響き渡った。



「何言ってんだー! 私は一生この三年間のこと、忘れないからなー!」



俺は顔を上げて、声の主を見た。
彼女は精一杯左手を振って、校歌を歌っている。

想い出と涙が、同時に溢れた。

見上げた空は滲んでいて、緑色のフェンスが溶けている。
セミの声は彼女を応援するみたいに、更に大きくなった。



〜〜end〜〜