物思う、故に。


「最近、彼女が逢ってくれないんです」

ここはとある喫茶店。

カウンタに座っている若い男が、テーブルに両肘をついた体勢でコーヒーを飲んでいる。
マスターは新しいコーヒーをいれながら、相づちをうっていた。
香ばしいにおいが店内に満ちる。

「卒業制作で忙しいんだろ? 梶くんだってバイト始めたんだし」
梶くん、と呼ばれた若い男はマスターのその言葉に頷いた。

「はい。そうなんですけど……。
 家に遊びに行くって言っても断られるし、携帯も切ってるときあるし……」
マスターはてきぱきと手を動かしながら、できたてのコーヒーを注いでいる。

「美大って、卒業制作かなり大変だからなぁ。オレも苦労したよ」
「マスターも美大卒なんすか? 意外っすね」
梶は目を丸くして言う。

「造形やってたんだ。彼女は油絵だっけ?」
マスターは、窓際のテーブルに座っている客にコーヒーを運んだ。
会話が中断されたため、梶はマスターが造るであろう作品を想像してみたが、全く検討がつかない。
梶本人も美術の専門学校に通っているのだが、造形というジャンルはさっぱりわからなかった。

「家で何か描いてるんじゃないのか?
 作品制作中って、あまり人に見られたくないもんだしな」
カウンタへ戻ってきたマスターが言う。

「……そういえば、今まで制作途中見たことないかも……」
梶が天井のライトを見つめながら呟いた。

「もうすぐ三周年記念日なんだろ? だったら大丈夫だって」
マスターの『大丈夫』は不思議と安心できる、と梶は思う。
「梶くんのバイトだって、そのために始めたんだろ?」
マスターはそう言いながら皿洗いを始めた。

「なんでわかるんですか」
梶は驚いてマスターの後ろ姿を見つめる。
マスターがきれいに拭いた白い皿が、どんどん積み重ねられていく。

「彼女、幸せだねぇ」
「ちょっ、何言ってるんですか」
梶は顔を赤く染めた。

「オレは当時つき合っていた人に、忙しくて逢えなくてさ。
 だから、お互いを想いやれる心があるってことはすごい大事なことだよ」
梶は一言も聞き漏らさないように、マスターの声に耳を傾けた。

「心配だったら、彼女の家に行ってみたほうが良いんじゃないかな」
「……」
「それもまた勇気」

きれいに整理された真っ白な皿。
マスターはそこで一息つくように、イスに腰掛けた。

「じゃあこうしよう。
 このコイン、表が出たら彼女のところへ行く。裏が出たら、行かない」
エプロンのポケットから取り出した十円玉を、梶に見せるマスター。

「……わかりました」
梶は少し考えてから、マスターの右手に注目した。

十円玉がくるくると跳ね上がる。

マスターの手の甲に、見事に着地。
梶はごくりと唾を飲み込んだ。

「さあ、良いかい?」

マスターが、十円玉を覆っていた手をゆっくりと離す。
そこに見えたのは……。



「表」



マスターはそう言ってにこりと微笑む。
「いってらっしゃい」





マスターは梶を見送り、夕方の仕込みに入っていた。
さすがにこの時間ともなると、人は少なくなる。

「マスター」
先ほどから窓際に一人で座っている客が話しかけて来た。
「そのコインって両面とも表ですか?」

マスターは笑いながら答える。
「さすが、銀くん。ばれてたかい?」
「普通、表が出るか裏が出るかって、相手に聞くものですよ」
銀と呼ばれた男は、煙草のけむりを漂わせながら言う。

「梶くんの彼女も常連さんだからね。話聞いてたら、協力したくなってさ」
マスターは仕込みの手を止めて、コーヒーを一杯注いだ。
そしてそれを銀のところに運ぶ。

「彼女、どうやら絵を描いてる現場を見られたくないらしいんだ。
 ちらかしっぱなしの部屋とかさ」
「なるほど」

コーヒーの香りが満ちる。

「上手く行くと良いけど」
「そうですね」
相づちを打ちながら、銀は少しだけ目を細めた。

マスターはカウンターに戻り、再び仕込みを開始する。
「あ、マスター」
「何だい?」

「つき合ってた彼女がいた、って話。あれは本当ですか?」
銀の質問に、マスターは手の動きを止めずに答えた。

「それはいくら探偵さんにでも教えられないなぁ。企業秘密」

マスターは思い出を確かめるかのように、ゆっくりと言った。

旧式のコーヒーメーカーが、カタカタと音をたてた。



〜〜end〜〜