black chocolate 〜後編〜

フレンが慌ただしく去って行くと、静寂だけが部屋に残される。緊張の糸がまた張り詰められて行く。
「変なタイミングで来んのな」
「そ、そうですね。フレンもバレンタインを知りませんでした」
 こちらへ歩いてきたユーリが、テーブルに着く。
「冷めちまったな。もう一杯淹れるか?」
「だ、大丈夫です」
「緊張してんのか?」
「してません!」
 ふいに、リタが振りかけたパウダーのことが思い出された。もし本当に惚れ薬なら、そろそろ効果が出るはずだ。
「ユーリ、わたし……」
「ん?」
 心なしかユーリがいつもより素敵に思えて、わたしは紅茶を飲み干してしまった。
「もう一杯淹れていいです?」
「いいのか?」
「はい」
 鼓動が速くなり、なんだか顔が熱い。もしかしたら、リタの魔法のパウダーが効いてきてしまったのだろうか。まさか自分が食べることになるとは思わなかった。しかも、ユーリの……。

「わあっ」
 先ほどのシーンが目の前をよぎる。わたしは必至でそれをかき消そうともがいた。
「どうした、エステル?」
「なんでもありません!」
 慌てて席を立ち、流し台へ移動する。わたしのティーカップとお揃いのティーポットから紅茶を注ぐと、少し穏やかな気持ちになった。
「最近、ちゃんと休んでるのか?」
「はい」
 こぼれないように、忍び足でテーブルへ向かう。
「打ち合わせはどうしたんだ?」
「実は、打ち合わせはないんです」
「もしかして、これを渡すためか?」
 相変わらず、ユーリは察しが良い。
「嘘をついてしまって、ごめんなさい。どうしてもユーリを驚かせたくて」
 ははっ、と笑ったあと、ユーリがはにかんだ。
「余計な気使わせちまったな。本当は今日も休みだったんじゃないか?」
 ユーリは、深海のような瞳をこちらに向けていた。
「どうしても渡したかったから、来たんです」
「そっか」
「はい」
 紅茶の香りに満たされた、穏やかな時間が流れて行く。

「エステル」
「はい」
「ありがとな」
「え?」
「これ」
 チョコレートを指さしながら、ユーリが呟いた。
「なんだか申し訳ないです。もう少しちゃんとしたチョコレートが良かったんですけど」
「バレンタインって一年に一度か?」
「はい。次は来年ですね」
「じゃあ、楽しみにしてるわ」
「それって……来年もまた作って良いってことです?」
「できれば、その先もずっとな」
 思いがけない言葉に、わたしは自分の口元を両手のひらで覆った。
「大丈夫だって。そのうち上手く作れるようになるから」
「あ、そういう意味です? そうですね、頑張ります!」
「いや、そういう意味じゃねぇけど……」
 わたしはユーリとの束の間の休日を、心ゆくまで楽しんだ。



 後日、リタが再びハルルを訪れた。
「リタ、あの惚れ薬、すごい効果がありましたよ!」
「え? あのバレンタインの?」
「はい。ユーリがすごく素敵なことを言ってくれて……」
「待って待って。あれは惚れ薬じゃないわよ」
「え?」
「エステルが渡せないんじゃないかと思って、とっさに出ただけ。あれはただのココアパウダーよ」
「だって……ユーリがその……」
「なんか良いことあった?」
 わたしは真っ赤になって固まってしまう。
「プロポーズでもされた?」
「い、いえ、違います!」
「なーんだ、残念」
 来年こそはユーリに素敵な言葉をかけてもらいたい。
「リタ、特訓に付き合って下さい」
「は? 何言い出すのよ、急に」
「来年こそは、ちゃんとしたチョコレートを作りたいんです」
「そういうこと。はいはい、わかったわよ。ところでエステル、ホワイトデーって知ってる?」
「男性がバレンタインデーにもらったチョコレートのお返しを女性に贈る日、です」
「あいつ、さすがにホワイトデーは忘れないんじゃない?」
「お返しならもう……」
 言いながら、バレンタインデーのことが思い出されてしまう。
「やっぱり良いことあったんじゃない」
 わたしはやっぱりルビーみたいに顔を真っ赤にしたまま、リタの言葉を聞いていた。







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