black chocolate 〜前編〜

 誰よりも早く渡したかったから、わたしはまだ朝焼けが残るザーフィアスの中を歩いてきた。ユーリはもう起きているだろうか。バレンタインデーである今日この日は、凛々の明星の休日になっているらしい。カロルの強い希望だと聞いている。
 一方、わたしは今日、ハルルの街にいることになっていた。一か月前ユーリに会ったとき、打ち合わせがあるから休めないと伝えていたのだ。
 ハルルからザーフィアスまではそんなに遠くないのだが、出発時間にはまだ外が薄暗かったため、心配したリタが「帰るついでだから」と、ここまで送ってくれた。昨日から家に遊びに来ていたリタは、別れ際に「ちゃんとチョコレート渡すのよ」と釘を刺すことも忘れなかった。

 ユーリに手作りチョコレートを渡したいと言ったとき、リタは少し躊躇していた。わたしがお菓子作りが得意でないことを、リタは良く知っている。一緒に料理したことはあったけれど、チョコレートだと全く勝手が違う。お菓子作りは、わたしもリタも苦手だった。
 一睡もせず、何度も失敗して悪戦苦闘した結果、一つだけ「もしかしたら食べられるかもしれないチョコレート」を作ることができた。
「上出来でしょ。何が何でも渡しなさい」
「でも、大丈夫でしょうか」
「そうだ、この魔法のパウダーを最後にかけましょ」
「魔法のパウダー?」
「まあまあ、いいからいいから」
 リタは手のひらに収まってしまうくらい小さな茶色い小瓶を取り出し、瓶と同じ色のパウダーをひと振りした。
「ココアパウダーですね」
「実はね、惚れ薬の一種よ」
「惚れ薬?」
「どんなに無表情な人間でも、その仮面を崩してしまう効果があるの」
「ユーリが笑ってくれるってことです?」
「それだけじゃないわ。いつもより饒舌になって、愛の言葉を告げずにはいられなくなるのよ」
「そんな薬が? すごいです、リタ!」
「ま、騙されたと思って食べなさい」

 ニヤリと笑うリタの顔が少し引っかかったけれど、その粉のおかげで焦げた部分を隠すことができた。わたしはユーリならきっと食べてくれる、という思いと、もしかしたら美味しくないのではないか、という気持ちの間で揺れていた。渡さないことも考えたけれど、リタのダメ押しで決心がついた。

 ユーリに渡そう。

 つい見とれてしまいそうになるピンク色の空に、温かい日差しが降り注いでいる。あの光を「天使の梯子」と呼ぶのだと、いつか母が教えてくれた。もしそうだとしたら、ユーリはこれを受け取ってくれるかもしれない。少しだけ希望を持って、一つ深呼吸。どうしてだろう、ユーリに会うときはいつも緊張してしまう。
 いくら朝が早い下町とはいえ、この時間に歩いている人は少ない。周囲に聞こえてしまわないよう、遠慮がちにドアをノックした。三回鳴り終える前に、ドアが開く。

「エステルか」
「ユーリ、起きていたんですか?」
 もう少しだけ猶予があると思っていたわたしは、思わず肩をすくめた。
「んーにゃ、寝てた」
 ユーリは寝ぐせのついた髪に指を差し込み、大きな欠伸をした。部屋の中へと歩くユーリの背中を追いながら、ドアを閉める。
「でも今、ノックの前に起きましたよね?」
「ああ、勝手に気配を感知するっつーか……」
「そんな。もう安心して眠っていいんですよ?」
「じゃあ、一緒に寝てくれんの?」
 意地悪そうな笑みを浮かべて、ユーリが言う。
「ユーリ、まだ寝ぼけてます?」
「寝ぼけてねーよ」
「そ、そんなことより、あの、これ」
 わたしは赤くなる顔を隠すように、小さな紙袋を差し出した。

「何だ、これ?」
 ユーリは何度か瞬きを繰り返した後、目を丸くする。ジュディスの言う通りだ。今日が何の日であるかなんて、きっとユーリは知らない。
 わたしが何をあげたら良いか相談したとき、ジュディスは「ユーリには記念日という概念がないんじゃないかしら」と言った。自分の誕生日や出会った日、凛々の明星が結成された日。どれもユーリは覚えていないらしい。誰かに指摘されて初めて、思い出すことも多いようだ。

「今日はバレンタインデーです」
「バレンタイン?」
 ユーリは首を傾げながら、気難しい顔をしている。
「女性がお世話になった男性にチョコレートを渡す日、です」
「そうか、そりゃどうも。もしかして、エステルが作ったのか?」
「え? はい……少し焦げてしまいましたけど」
 語尾のボリュームを最低限まで下げつつ、説明する。
「リタにも手伝ってもらったんですけど、なかなか上手く作れなくて。チョコレートには挑戦したことがないですし」
 言い訳を続けるうちに、自分が情けなくなってきてしまう。顔を上げることができなくて、自分のつま先を見つめた。包装紙が剥がれる音だけが、室内に響く。
「ユーリ、やっぱり……」
 食べないほうが良い。意を決して顔を上げると、ユーリはすでにチョコレートを口に放り込むところだった。
「ん?」
 わたしは目を丸くして、固まった。
「まだ食べて下さいって言ってないのに」
「美味しいぞ、これ」
「嘘です、だって焦げてしまいましたし、混ぜ方も微妙ですし、ナッツも……」
「信じないのか?」
「だって……」




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